「バイバイ」
小さな手が、男の緋色の長衣をしっかりと掴んでいた。
無邪気な笑顔が、そう言うのを何故か不安に思う。
「星弥・・・・星弥ッ」
「バイバイ・・・・斗南ちゃん」
星弥を衣の中に抱き込んだ見知らぬ男の背に、オレンジの炎が噴き上がる。
巨大な真紅の翼。
チラリとこちらを見、男は星弥の耳元で何かを言った。
あどけなく甘い笑みを浮かべ、星弥が男にしがみつく。
男の緋翼が大きく羽々たき、それが起こす風から目を庇おうと、手を上げた瞬間、星弥の笑顔が、空気に溶けた。
「星・・・・星弥!!」
―――――― バイバイ ――――――
天使は、その言葉だけで何かを伝えるでもなかった。
煌きが落ち、真紅の花弁が舞い上がる。
何より大切に守り育ててきた天使が、目の前で消えていった。
日向家の末っ子、星弥が生まれたのは、長男の斗南が17歳の時だ。
男3人兄弟の末に生まれた4人目は、目を見張る容姿をしていた。
あまりの事に、斗南、北斗、七星の3兄弟は、母が浮気でもしたんじゃないかと本気で思ったものだ。
4人目、その容姿は、蜂蜜色の柔らかな金の髪、象牙を髣髴とさせるすべらかな肌を持っていた。
疑心暗鬼に両親を見やり、言い出せないままに眠る赤ん坊を見つめる3人の、
その食い入るような視線を感じたかのように、その時、赤ん坊が目を覚ました。
深い、深い、森の緑。
北欧の針葉樹の森を思い出させる、穏やかなその瞳。
それを見た瞬間、青年になりかけの兄弟たちは疑いを持っていたことを忘れた。
そんな事は、どうでもいい。
瞳に何か力があるかのように、斗南たちは、生まれたばかりの妹に、夢中になったのだった。
まだ春になりきれない、不安定な空模様の3月ではあったが、
星弥の生まれたその日は、満天の星空が広がっていた。
冷えた空気に、白く輝く星々。
妹は、その星と、父の名から一字を取って、『星弥』と名付けられた。
――― 夢をみるの・・・ ふしぎな夢・・・ あのねぇ 星弥、お姫さまなの ―――
それは、星弥が7歳の誕生日を迎える直前から始まった。
星弥が、同じ夢を繰り返し見ると、斗南に言い出したのだ。
「それは・・・星弥が生まれる、ずっと前に見ていた光景かもしれないよ?」
占いやそう言った不思議な現象に詳しい、三男の七星が『輪廻転生』について、解りやすいようにそう話して聞かせているのを微笑ましく思う。
小さな妹を愛しく思う気持ちは、兄弟3人とも同じなのだ。
「星弥、そのゆめをみると、かなしくなるの・・・どこかに忘れ物してきたみたい」
言いながら、泣きそうになっている妹に、斗南は歩み寄るとその華奢な身体をひょいと軽々抱き上げた。
すぐに細い腕が首にしがみついてくる。
「夢だ、お前が悲しくなる事なんてないんだぞ? ん?」
「うん・・・でもね、斗南ちゃん、星弥の心が、哀しいっていうの。せいや、悲しい事なんてなんにもないのに・・・」
さらにきつくしがみついてくる星弥の髪に、そっと口接けて斗南は頬を寄せる。
「一緒にいる、もう哀しい夢など見ないから、泣くな、星弥」
声もなくこくりと頷く星弥に、斗南は穏やかな笑みを浮かべ、時計をチラリと見るとそのまま星弥を寝室に運ぶ事にした。
「やっぱり、星弥は斗南兄さんが”一番”なんだね」
七星が苦笑を浮かべて、自らの部屋に消える。
それを見送り、斗南は星弥の部屋ではなく、自分の部屋の扉を開けた。
斗南の腕に安心した星弥は、既に半分夢の世界だ。
ベッドに星弥を降ろそうとすると、離れるのが嫌だとばかりに首がゆるゆると振られる。
宥めるように額にキスすると、星弥の体から力が抜けていった。
「いい子だ」
くすりと小さく笑い、斗南は慣れた手つきで星弥を着替えさせてしまう。
そして、一緒にベッドに転がると、星弥には毛布を着せ掛けて目を閉じた。
コトリ・・・・
夜半、いつもなら仕事の疲れと星弥の相手で疲れ果て、目など覚めないはずのその時刻に、不意に斗南は覚醒した。
(・・・・・・・?)
何か、物音がした。
ゆっくり目を開ける、その瞬間、斗南は腕の中の温もりが消失している事に気付いた。
「!」
一気に目が覚めて、斗南は跳ね起きると、闇に包まれている周囲を見回す。
広い洋館の大きなフランス窓。
バルコニーへと続くそこが、薄く開いていた。
(寝ぼけたのか・・・っ)
慌ててベッドを降りた斗南は、大股で部屋を横切り、バルコニーへのガラスの格子窓を大きく開いた。
シャラ・・・・・・・・
確かに、星弥はそこにいた。
その身に、月光をまとって・・・・・
いや、星弥自身が発光しているかのように、
その幼い全身が、淡く輝いていた。
さらさらと、光が零れ落ちる。
声をかけるのが躊躇われる光景。
いつもの無邪気な妹とは、どこかが違う。
一点を見つめている。
そこに誰かが存在するかのように・・・・・
「・・・」
微かな、言葉とは思えないような『音』が斗南の耳に届いた。
その瞬間、言いようのない不安が斗南の胸に広がりだす。
何か、大事なものをうしなってしまうのではないかという、追い立てられるような不安。
「星弥っ」
思わず、大きな声で呼んでいた。
ゆっくりと振り向くその名の主。
今だ夢の中のように、ほんわりと微笑んで。
「・・・・ないで・・・・」
微笑が、次第にくしゃりと歪んで、すべらかな頬を光るものが一筋、
流れて落ちた。
「・・・・ないで・・・・・」
こちらを向いているのに、その言葉は斗南に向けたれたものではない。
それは、直感的なものだ。
「行かないで・・・一人にしないで・・・」
「星弥・・・・」
生まれてから、一度もこんな涙を見たことはなかった。
―――― イカナイデ ――――
次の瞬間、星弥の体が糸の切れた操り人形のように、
その場に崩れ落ちた。
慌てて駆け寄り、首筋から脈を測る。
規則正しい、鼓動を知らせるその脈動にほっと息を吐き、
斗南は再び星弥をベッドに連れ戻した。
風邪など引かせる訳には行かない・・・
そうやって、自分の思考を現実に引き戻す努力をしつつも、
しかし、彼の中にこの光景は消えずに残る。
彼の妹が、緋色の中に包まれる瞬間まで。
ふと気がつくと、時計が12時を回っており、星弥は7歳になっていた。
「星弥・・・・そいつは、誰なんだ?」
それは、ある晴れた穏やかな午後。
星弥の昼寝場所である母の温室でおこった。
昼寝から起こそうと、斗南が温室の扉を開いた瞬間、
個人所有としては大きな部類の温室の中に、換気窓も空いていないのに
風が起こった。
「あのねぇ・・・ソオウっていうの」
邪気なくにっこりと微笑んで、星弥は言った。
「そうじゃない・・・星弥、一体・・・」
そこにいるのは、どう見ても、普通の人間ではなかった。
燃える炎に似た朱金の長い髪、そして、瞳は緋色。赤ワインを混ぜたかのように
時折り色を変化させて・・・
そして、神話や物語の中の登場人物のように、大仰な衣装。
髪の色や衣装などどうにでもなるが、しかし、その瞳の色だけは人の手で表現できるものではないように思えた。
「だれ・・・なんだ・・・星弥」
「あのね、ソオウ、星弥をお迎えに来たんだって」
「迎え・・・? どういうことだ」
「星弥に助けてほしいって、ソオウが言うの。ずっと星弥をさがしてずっと、星弥に会えるのを待ってたって・・・」
「何を言ってるんだ、そんな話が信じられ・・・・・」
「星弥ね、ソオウを知ってる・・・星弥、夢で・・・ソオウにあったの。星弥、お姫様だった・・・」
どきりと心臓が跳ね上がった。
7歳の誕生日、星弥が包まれた不思議な輝き、
喪失の不安・・・・
長い天鵞絨のマントから手が伸び、星弥の頬に触れる。
その顔がとろけるように微笑み、彼の手に自ら手を添えて頬を押し付けていった。
ずきりと痛みが走る。
今まで、12年の間、あの7歳の誕生日から忘れようとして、
ずっと心にしこりを残していた。
忘れた振りをしてきたのだ。
―――― 特別な子よ、大事にしなくちゃ・・・ ――――
不思議の力持つ、"巫女姫"と呼ばれた友がそう言っていた。
7歳の誕生日に、お守りにとガラスの四神相応図を持参して。
特別な子供、それは自分たちにとって宝物として、当然の言葉だと思っていた。
しかし、今、友が残したその言葉の意味が解った気がした。
特別なのは、己にとってだけではなかったということだ。
すっぽりとマントに包まれた星弥を見、斗南はそう思い至る。
「斗南ちゃん、星弥、行くね・・・・」
「星弥? 何処に行くんだ?」
「とおい所・・・でも、とても側にあるの。星弥は・・・そこへ行くの、ソオウと一緒に」
「星弥、戻っておいで、ここがお前の家だ。お前の在るべき所だ」
「バイバイ、斗南ちゃん」
返事をすることなく、星弥が斗南に言った。
星弥が向ける笑顔はいつもと変わりなく、ただそれが自分の腕の中ではないだけで、だがそれは、そう珍しい事ではない。
星弥は、人懐こく誰からも愛される。
星弥をこんな風に抱き上げる者は、他にもたくさんいた。
なのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのか。
「バイバイ・・・」
胸の奥が、焼けるように痛む。
「行くな、星弥。こっちへおいで」
星弥は何も言わず、微笑んだまま斗南を見つめている。
不意に星弥を抱いていた男が、抱き上げる手を少しだけ締め付け、幼い耳に何かを囁いた。
こくりと頷いて、星弥は男の首にしがみついていく。
「星弥・・・星弥っ」
男の目が、こちらを見た。
意志の強さ、その自信、全てをその緋色の瞳に映して。
――――― もう、二度と手放す気はないんだよ・・・ ―――――
少しかすれた男の声が聞こえた気がした。
目の前の男の声とは断言出来ない。
その声は、音として聞こえたわけではない、直接頭の中に響いてきたのだ。
温室の中に、新に風が巻き起こる。
その風の音と同時に、ゴオゥッという大きな音が斗南の視線を釘付けにした。
男の背中から天井に向けて炎が噴き上がり、一対の翼が出現したのだ。
それは、炎を纏いつかせた巨大な緋色の翼。
その瞬間、周囲が温室ではなくなっていた。
様々に変化する光に彩られた、上下も左右も定かではない空間。
バサリ・・・・
羽音がして、風が起こった。
バサリ・・・・
男の翼が、ゆうるりと羽ばたきを繰り返し、飛びたたんとしている。
「星弥・・・行くな・・・・」
判っていた、星弥の手がもう自分へとは伸ばされないと。
「バイバイ、斗南ちゃん・・・・」
男の首に顔を埋めた星弥に満足げに笑みを浮かべ、男は大きく翼を開くと最後に一度だけまっすぐに斗南を見た。
そして、見つめたまま、雄々しく翼を振るう。
吹き付ける風の強さに目を庇いながら、斗南はそれでも目を逸らすことなく彼を見つめ返す。
頷くように男の目が伏せられた。
それとともに星弥と男の姿が霞み出す。
「!」
咄嗟に手を伸ばしかけ、斗南はその手を途中で止めてしまう。
薄れ行く一枚の絵のようなその光景を、斗南は言葉もなく見詰めつづけた。
―――― バイバイ・・・・ ――――
ふと、我に返るとそこは元の温室だった。
何があったのか反芻しようとして、斗南の目にベンチにそのままになっているタオルケットが映った。
星弥が昼寝に使う淡いピンク色のそれが、少女が起きだした形のまま残っている。
今見た光景が、信じられなくなっていた。
家の中の子供部屋に行けば、星弥がいるような・・・・
今の今まで、自分が見ていたのは夢だったのではないだろうか・・・?
「夢・・・・・・」
声にしてみて、ふいに湧き上がった考えに戸惑う。
「夢・・・・か・・・・・」
もしかしたら・・・・
星弥の存在そのものが夢だったのではないだろうか・・・
あの柔らかな感触も、甘い匂いも、伸ばされた細い腕・・・・
全てが・・・・・・
巡る考えに斗南は区切りをつける。
どちらにしろ、この手の内に、もう星弥は存在しないのだ。
もう二度とあの優しい時間が訪れる事はない。
それだけがはっきりとわかっていた。
そして、
温室を出た斗南は、足元にあるものに目を見開いた。
「夢ではなく・・・・天使だったと・・・・・?」
そこには、
緋色の羽根と重なるように半分透けた白い羽根が落ちていた。
後ろ手に温室の扉を閉めた斗南は、羽根を拾い上げるとその場を後にした。
静かで穏やかな午後が戻ってくる。
何も変わらない、日常の時間。
振り返ることなく歩いてゆく。
世界中何処を捜しても、見つからないものができたという事実を、
噛み締めながら。
―――― バイバイ ――――
最後の瞬間までも甘い声が、何度も耳の奥で繰り返されていた。
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